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瀧 千賀子 高ヒット
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七ぶら

どうして七ぶらと言ったのか、七間町をぶらぶらと歩くというのを縮めたものだろうと、想像はつくのだが、当時学齢前の子どもだったわたしは七ぶらと言ったことはなかった。連れて行ってくれた親たちもただあっさりと、
「七間町へ行こう」
と言った。それも言わないで、夏中は行くもんだという感じで、早めの夕飯を済ますと風呂に入った。祖母は出てきたわたしと妹をつかまえると体中に天花粉をはたいた。おでこにはあせもができると言って天花粉を念入りにはたくので真っ白い顔になる。
若い母と六歳と四歳の姉妹は、ばりばりとのりのきいた浴衣を着て、暗くなりかけた外に出る。祖母は中気で寝たきりの祖父がいたので、一緒に出たことはなかった。父親はどうかすると一緒に来ることもあったが、堅物の父がいるときは母もわたしたち子供も少し緊張した。
筋向いの志村うちわ店のおじさんとその隣の鈴木さんのおじいさんが、電信柱の街灯の下に縁台を出して、将棋板を中に縁台をまたいで、足下をうちわでパタパタはたきながら将棋をしていた。
「おやきれいどころがお三人、ちかこちゃん、いいもの買ってもらいなよ」
そう言うおじさんたちも、わたしたちが帰ってくる頃、浴衣の袖を肩までたくしあげて七間町へ繰り出す。
人宿町通りに出て杉山金物店の角を曲がって七間町通りに出る。向かい角の桜湯は屋根が破風になった御殿のような立派なお湯やだった。お正月になると宝台院の境内に東京から大相撲が来る。寒い風の吹く夕方、まだ幼な顔の残るお相撲さんが浴衣の帯がわりに縄を巻いて、藁草履を履いた太い足を砂だらけにして、ぞろぞろと桜湯に来る。わたしはこの光景を何度か見ている。大男の若いお相撲さんは、ちっとも寒そうではなく、にこにこして何か声高に仲間と話している。わたしが祖母にこのことを言うと、
「ああ、ぺえぺえのお相撲さんだよ。幕内の大物のお相撲さんが入った後、入りに来るのだよ。そういうとこ通ってお相撲さんは強くなる」
祖母はちっとも同情しなかった。それでもわたしは子どもごころにあの砂のついた太い足は寒いに違いないと思った。
あの頃の夏は、今より涼しかったような気がする。浴衣を着て七間町を歩いても汗だくになるということはなかった。昼間、炎天を歩いても、日陰に入ると涼しい風が吹いた。
人宿町を曲がってから、一二間道路までは明るい電灯の店や映画館があったが、夜店はあまり出ていなかった。一二間道路を越すと商店の前にびっしりと夜店が並ぶ。店を覗くとアセチレンガスの匂いがぷんと鼻をつく。
この青白い光が夜店の商品を照らす。夜店の上には、七間町のすずらん灯があかあかとついていた。毎晩のことなのにこのアーチ型のスズランのようについた丸い電灯を見ると、今七間町にいると思ってわくわくするのだった。夜店を見ながら、札之辻の角まで来ると、呉服町へは曲がらないで今度は反対側の夜店を見て帰る。母親に手を引かれながらふと振り返った県庁、市役所、警察へ行くまっすぐの道は札之辻の明るさはなく、大きな建物が暗闇の中にぼんやりと見えた。入道舘へ行く細い道も人の波で賑わっていた。女子どもなので、入道館の方へは行かない。毎晩のように来るので、わたしたちは夜店で何か買うということはなかった。たまに母が野菜の皮むき器などを買ったりした。あんなに夜店のおじさんがやるとジャガイモなど、まるで蜜柑の皮をむくようにきれいにむけるのに、家に帰って母がやるとつっかかって、うまくむけない。祖母はそれを見て、
「やっぱり、餅は餅屋だよ」
と言って笑った。
 ものは買わなかったが、必ず寄るのは金魚屋陶器店の手前の大黒亭だった。カシャカシャと鳴るガラスの細い管を繋げて何十本と吊り下がったのれんには、大黒亭と色付きの菅で染め抜いてあり、のれんの上には青い波の模様が涼しげに揺れていた。入ると広い部屋にテーブルがたくさん置かれ、そこでわたしたちは、冷たいカルピスを飲んだり、足付きの金属の器に入ったあずきアイスを食べるのだった。アイスの匙は平たいハート型をしていた。そこから見える奥は中庭になっており、打ち水したシュロの葉の水玉が店の灯りでビーズ玉みたいにきらきらと光った。その中庭の奥も店になっていたようだったが、わたしたちは行ったことはなかった。
 あずきアイスといえばこんなことがあった。その日は父の帰りが遅かった。父は自分の生家である新通り一丁目の石川組の大工をしていた。父方の祖父は大工の棟梁で家の表二階には若い衆が四、五人寝泊りしていた。父の兄弟は皆堅物で通っていた。太田町の工業高校へ行ったが、棟梁の父親の考えで中途退学させられた。そのとき、父と二つ違いの弟は、成績が学年で一番と二番だったので先生が惜しんでくれたそうだ。中途退学したのは同じくらいの年の若い衆に気兼ねもあったのだろうか。今、父が生きていれば百歳近い。当時としてはそんな考えもあったのかも知れない。父は寺町の遠縁の家に養子に来た。そして母と結婚してわたしが生まれた。
 その日もわたしたちは七間町に行きたくてうずうずしていた。それを見て祖母が、
「お父さんが帰ってきたら、夕飯は出しておくから、早くいっておいで」
と言った。嫁姑といっても祖母と母は伯母、姪の仲なので何かにつけて、祖母は姪の母をかばった。その晩も大黒亭へ寄って最中のあずきアイスを土産に、寺町に帰った。
 わたしたちの住まいになっていた、二階の奥の十畳で父親はひっそりと習字をしていた。母親が盆に乗せて出したあずきアイスを父親はものも言わずに母に向かって投げた。溶けて柔らかくなっていたアイスは母親の浴衣に当たって、あずき色の汁が尾をひいて流れた。
「帰ってきておっかさんに晩の支度をしてもらいたくない」
 めったに大きな声を出したことのない父親が鋭い声でどなった。そしてわたしたち子どもにも、
「いつまで遊んでいる。早く寝よ」
と、どなった。わたしたちは口から棒を呑み込んだようになって胸がつかえ、しくしくしている妹と蒲団に入った。
 今考えれば、若い父には養子という遠慮が常につきまとっていたのかも知れない。遅く帰ってきて子どもの顔を見ようとしたのに、姑の給仕で夕飯を食べるのは父には腹の立つことだったのだろう。それから後も七間町に行ったのか、そのまま、涼しくなって行かなくなってしまったのか、覚えていない。その翌年の一月十五日、わたしたちは静岡大火に遭っている。その前の秋口、やさしかった祖母が少し病んだだけで亡くなった。

作家。文芸フォーラム静岡会員。昭和8年寺町二丁目(現駿河町)生まれ。城北高校、静岡工業高校卒。平成10年「芹」で第38回県芸術祭文学部門奨励賞。12年「木の花町物語」で第4回杓子庵文学賞。
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