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玉川座棟上の図 高ヒット
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二代目歌川貞景筆「静岡玉川座棟上の図

現在の静岡市葵区七間(しちけん)町(ちょう)は、奈良時代には「安倍の市」、鎌倉時代には「連雀町(連尺町)」と呼ばれて駿河(するがの)国(くに)の商業の中心地として栄えていた。
慶長14年(1609)、徳川家康が駿府96ケ町の町割りをしたとき、「七間町」が誕生した。
町名の由来は、絹・米・油等の「座」が7軒、道路の巾が七間、秤屋が7軒と諸説がある。

当時の東海道は清水から西へ向かい、下横田の「東見付」の木戸から駿府に入り、伝馬町⇒新谷町⇒札の辻町⇒七間町⇒梅屋町⇒新通り⇒安倍川であり、明治22年、東海道線が開通するまでの静岡一の繁華街は「七間町」であった。(宿駅としては伝馬町が栄えた。)
特に札の辻(現伊勢丹前)から寺町三丁目(現駒形通り1丁目)にあった『若竹座』という芝居小屋までの間の七間町通りが、明治初期から昭和15年1月15日の静岡大火までは静岡一の賑(にぎ)わいを誇っていた。この『若竹座』の前身の『玉川座』は明治3年8月に、当時静岡に逗留していた、江戸町火消し「を組」の頭(かしら)であった新門辰五郎が建てたものである。
新門辰五郎は、江戸町火消し6組をまとめる「十番組」の頭領として手下約二千人を従え、また大江戸一の侠客として、幕末の江戸庶民の憧れの的の人物であった。

慶應4年4月11日、江戸城が無血開城され、265年間続いた徳川幕府が崩壊(ほうかい)すると、最後の将軍であった徳川慶喜公は一時期水戸で謹慎(きんしん)されていたが、同年7月からは駿府下魚町(現常磐町二丁目)の金米山宝台院龍泉寺(通称宝台院さん)に移られて、精鋭隊約270名と新門辰五郎一門50人の警護のもと静かに謹慎されていた。精鋭隊は久能(くのう)山麓に宿舎を置き、新門一門の警備本部は下魚町の円珠山常光寺にあった。

 明治2年9月28日に慶喜公の謹慎が解けた時、辰五郎は慶祝の気分を一層高め、明治維新で混乱する駿府の町に活気を生み、商売を賑やかにするために江戸に居た頃に面倒を見た江戸歌舞伎三座の千両役者達を呼んで盛大に興業することを考え付いた。
丁度この頃、ササラ村(現川延町・馬渕の一部)にあった人形浄瑠璃(じょうるり)の「玉川広(ひろ)太夫座(だゆうざ)」が経営不振となり、興業の権利を買えることが分かると、辰五郎は清水次郎長の後援者である清水の廻船問屋松本屋平右衛門の斡旋により、米穀廻船問屋の「綿伊(わたい)」に数百両(1億円強)を出資してもらい、寺町三丁目に立派な本建築の「玉川座」の建物を建てた。
明治3年8月の「こけら落とし」には当代一流の役者達が次々に来静し、連日大入り満員の盛況となり、近辺には御茶屋・料理屋などが次々と出来て、町も大いに賑わったという。

「玉川座」は辰五郎が帰京した明治4年には長唄の小川鉄太郎が座主を引き継いで「小川座」と改称し、明治20年には材木商の高橋鉄太郎が引き継いで「若竹座」と改称された。
「若竹座」は明治25年12月に隣の寺への放火により全焼するが、次に座主を引き継いだ大塚正寿が翌年地元財界の力を借りて建て替えると、明治30年6月15日にはエジソンの活動写真を上映して、静岡を日本一の映画の町にする基礎を築いた。

また昭和の始めには七間町通りを「銀ブラ」になぞって「七ブラ」と呼ぶハイカラ文化を静岡に広め、多目的ホールとして歌舞伎・新劇の他に洋舞・ボクシング・百貨店の展示即売会等、新しい文化を次々と市民に発信し、静岡大火で焼失するまで静岡の文化・社会・商業の発展に大きく貢献すると共に、静岡市民が新しい文化に敏感に反応する感覚を醸成した。(注)「銀ブラ」とは、明治末に慶大生に流行った「銀座でブラジル・コーヒーを飲む」というハイカラ文化が後年、「銀座をブラブラする。」(高級文化志向)と変った。
戦後の昭和21年に洋画専門の「国際劇場」として再建され、娯楽の少なかった時代に世界の映画文化を通じて、静岡市民に戦後復興の夢と希望と活力を与えてくれた。
※「七間町物語」より「玉川座から若竹座までの歴史」白倉和幸

写真の木版画は静岡「あべの古書店」蔵である。
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