映画が静岡で初めて上映されたのは、いつ、どこでと問われて答えられる静岡市民は意外に少ない。映画がまだ活動写真と言われた明治三十年の六月十五日、旧寺町三丁目にあった、この「若竹座」が、その答えである。静岡の「映画の日」はここから始まったのである。その後、「立花亭」「開情亭」から「入道館」「文楽館」など寄席と活動写真を興行する劇場が次々と開館していった。大正二年には七間町に静岡最初の映画館「パテー館」がオープン。大正ロマンを象徴するようなハイカラな映画館だったが、わずか九ヶ月で火災により焼失、廃館となった。

 大正八年、現「静活」の前身である「静岡活動写真株式会社」が創立され、七間町と両替町を結ぶ角地に洋画専門の「キネマ館」を開館した。これは”映画館のある街”七間町のメーキング・ポイントと言える登場となった。

 映画がトーキーとなる昭和六、七年まではサイレント映画で、これは「活動写真」と言われ、音の部分は弁士や楽団が担当していた。戦後の映画興行界には弁士出身の人が多かった。日本映画の創成期の代表的な弁士に駒田好洋がいた。弁士の社会的地位も高く、明治三十年の「若竹座」の興行にも駒田好洋が来静して名文句で市民を熱狂させたという。

 「キネマ館」は堂々とした三階建ての洋館で、これまでの映画館のイメージを一新させるほどに新鮮だった。BGMにもバイオリン・ピアノ等の洋式楽器を採用して「ドナウのさざなみ」などの生演奏が呼び物で、市民の話題をさらった。映画館はひととき日常性から離れて非日常性を簡単に提供してくれる格好な楽しみの空間だった。そこに、いろいろな商店・飲食店等が集まり商店街を形成していった。

 大正九年、七間町(現・静岡ピカデリーのところ)にモルタル三階建ての豪華なイルミネーションが輝く「電気館」が誕生する。当時の新聞は「静岡市に一大不夜城出現!」と書き立て、大正四、五年に造語された”銀ブラ”にあやかった”七ブラ”の端緒をつくった。現在の「七間町七ぶらシネマ通り繁栄会」もこれによるネーミングである。

 大正十一年には旧下石町(青葉通り)に「歌舞伎座」が華々しく開場した。こけら落としには六代目・尾上菊五郎が来場した。芝居と映画を興行していた「歌舞伎座」は昭和二年に静活に合併され、松竹映画の封切館となった。昭和六年に静岡最初のトーキー映画「キートンのエキストラ」が公開され、以後次々とトーキーの設備が劇場に新設され、映画はサイレントからトーキーへと変化していった。

 昭和七年には静岡に映画ファンのクラブ「静岡シネマリーグ」が誕生。旧制静岡高校の映画研究会はフランス映画の「自由を吾等に」を自主上映、市民の中に映画が深く浸透していった。


 静岡は過去に二つの大きな災害を経験している。昭和十五年の静岡大火と昭和二十年の戦災である。街全体が二度も焦土と化したのである。災害からの復興の旗印は映画館の誕生だった。”人々に憩いを”と行政も一日も早い劇場の再開を要請した。昭和十五年一月十五日の大火から、その年の十月に「電気館」「新興劇場」(現・岩井屋蕎麦店のところ)、翌十六年には「静映劇場」などが次々と開館して大火前より華々しく、街は再び賑わいを回復していった。昭和二十年の戦災で静岡市は再び焦土と化したが、その中から翌二十一年には「電気館」が誕生。映画館は虚脱状態にあった人々に楽しい希望を与えるものとして、復興に向けて立ち上がらせていった。静岡映画発生の地とも言える「若竹座」も大火後は「常磐劇場」「松竹座」と改称され、戦災後の昭和二十一年十二月十日には「国際劇場」として開館、多くの洋画ファンの憩いの映画館となった。

 七間町というこの街は、全国的に見ても映画館が一ヶ所に集まった珍しい街だ。現在はここに十三のスクリーンが五つの建物に入って立地している。商店街は全国どこでも映画館を中心に街を構成している。それは、映画というものがその発生のときから持っている”大衆性”という性格に起因するものに違いない。

 七間町の、映画館にまつわるエピソードにもいろいろのものがある。それは世相というものを色濃く反映したものが多い。昭和二十三年の「中央劇場」での外人による”ホールド・アップ強盗未遂事件”。昭和二十八年の岸恵子・鶴田浩二の「つばめ旅館」駆け落ち秘話。昭和二十九年の「黄色いリボン」の公開を記念して「国際劇場」で静岡新聞社・松坂屋との共催によるミス・コンテスト。「新静岡センター」のオープン記念で「静岡松竹」で開催したミス・コンテスト。昭和四十三年の「ロミオとジュリエット」の公開中に「静岡ミラノ」であった高校生の服毒自殺事件。

静岡には戦前から戦後に至るまで数多くの銀幕スターが来て、いろいろなエピソードも多い。美空ひばり、中村錦之助、石原裕次郎、島倉千代子、岩下志摩、渥美清、松坂慶子などなど、外人スターを含め数えきれないほどスターたちが静岡の街に来ている。
 特急つばめで静岡駅のプラットホームに停車中に、取材に来た人々に発車の時間が間もないのに「サスペンス、サスペンス」とおどけて見せたヒッチコック監督など、その人柄を彷彿とさせる。渥美清が「静岡松竹」での舞台挨拶のとき、停電の中、懐中電灯を持って舞台へ、浅草仕込みの得意のアドリブで満場の客を沸かせ、さすが”大喜劇役者”とうならせたものだった。

「七間町物語」斉藤 隆「映画館のある町、七間町」より

七間町物語」は七間町百年の記憶と題し平成18130日発刊、総頁数336頁、頒価3000円。

当ホームページの「七間町物語」は、この書籍を基にして再編されたウェブ版の「七間町物語」です。