大正時代 床上浸水

大正三年 安倍川大洪水

百年に一度の大災害が静岡を襲った。大正三年八月二十九日深夜、台風による連日の豪雨のため安倍川堤防が決壊し、泥流が市中心部を襲い、七間町も二丁目、三丁目が床上浸水した。

七間町二、三丁目は西方へ行くに従って、水が深く、道路の交差点には、大綱、或は青竹を結び付け、これを頼りに辛うじて横断する有様だった。梅屋町通り桜湯横の角は、奔流道路をえぐって、渦を巻いて居り、手綱を手繰って通行しても、ともすれば足元をすくわれ、激流に流されたもの、何人とも知れなかった。下魚町の一軒の家は土台をさらわれ、全壊した。食料、飲料水配給の救助船が、海岸地方及び上土方面から出動して漕ぎ歩いたが、家屋に衝突して破壊したもの三艘あり。一艘は下石町から漕いで来たものが、七間町通りで押流され、三丁目岩井屋そば店の四ツ角で突きかかって、水路を遮断したため、付近は一時増水をして大騒ぎをした。

藤右衛門町、寺町一丁目から四丁目は本流となって流れ、全家屋悉く浸水し、老人子供等は各寺院へ避難させ、床上は四、五十センチ浸水しておる。従って便所にも井戸にも勿論濁水が入り飲料に使用することができない。電柱から、電柱へ大綱を張り渡し、之を頼りに通航する者は、米袋、握り飯を背負い、薬缶を下げ、被害者を見舞う人々だった。地面のえぐれや、側溝にはまって倒れた人は幾人あったか知れぬほどだった。濁水をわたりいく人は、竹竿などで水中を探り乍ら歩いた。二階や屋根に避難した家族に竹竿の先に見舞品をつけて配っている姿も見られた。罹災者は学校、社寺、其他へ収容し賎機山へ避難した人々、火家の土手へ避難した人々もあった。県、市、警察、静岡連隊の一部も出動した。

この大洪水も三十日午前十時頃から減少し始めた。決壊場所の水防工事が奏功したからだろう。七間町二丁目辺りでは午後二時頃でも、濁水が膝位あった。九月一日午後四時頃、締切り工事が終わり、漸く安心したが、井戸水が使用できなくなり、床下の乾燥が手間取り、畳の濡れたのは仲々乾かず、結局廃棄するわけ。濡れた道具、什器類の乾燥、寝具、衣類の洗濯、方々の清掃等仲々大変だった。

此の大洪水で、死者四十五名、負傷者九十人、流失家屋、全潰、半壊一千戸、浸水家屋九十二町にわたり一万戸、田畑の流出百八十町歩という損害だった。

七間町二丁目の様子、床上浸水に見舞われた。