七間町と名店街

今川期、七間町のあたりは「今宿」と称して多くの商工業者が集まっていた。七間町には特権を与えられた七つの座があったことから後に「七軒町」と呼ばれるようになる。
徳川の時代になると大きな商家が立ち並び、東海道に沿った駿府随一の繁華街となり多くの人々が行き交う街となる。その様子は、東へ西へと旅する人たちが日記や紀行文などに七間町を書き記している。
明治になって日本が近代国家として産業振興を図るようになると、静岡市は地場産業である茶や下駄、漆器を盛んにし、県外や外国に販売の道を開いていく。
七間町やその周辺の町にはそれらを商う店や人が会合する店などが多くでき、街は飛躍的な発展を遂げていく。
大正、昭和と商店街としての町並みが整い、特に昭和3年、鈴蘭灯ができるに及んで買い物や憩う人々が通りを歩く「七ぶら」が注目を集めるようになる。しかし昭和15年の静岡大火、昭和20年の静岡大空襲によってすべてが灰塵と化し、復興を成し遂げるのはアーケードが完成し、人々に親しまれた地球ネオンが誕生した昭和28年頃であった。
戦後、七間町の有志は七間町発展会をつくり街づくりに多くの貢献を続けてきた。
そして昭和48年、七間町発展会を商店街振興組合七間町名店街に改め活動を拡大、組織化していった。
上の写真は組合創立総会の記念撮影。別雷神社階段での組合員全員の集合写真である。
下の写真は会場内での創立総会の様子。「祝 創立総会」の文字が見える。

昭和48年、商店街振興組合七間町名店街、誕生。