民友新聞社

戦死者老母の血涙

大屈辱大侮辱の講和の成立につき、そぞろにも思い出さるるは、死んだわが子の身の上なり。
思えば去年の今頃は、勢い込んで今にお待ちよ凱旋して帰るべしと、勇み勇みしものが、何事ぞ白骨と化し目の前に置かるるとは。
静岡市七間町二丁目高田勇二氏の父は、口惜しさに白骨に対し男泣きに泣きおれりと、これも講和の結果なり。一昨日も長田の親類のものが補充の出立を送って丸子まで行きしに、日暮れまでも帰らず、様子を聞けば、路々ヤケ酒を呑んで歩きたりと。男ですらすでにこれ。ましてや女の身のこれが泣かずにおられようか。倅の犬死に、追手町青島の母は朝から晩まで眼縁を泣きはらし、八番町井上清吉の母は毎日毎日骨を眼前に置いては体も続かず察しのないのは係りの役所と、一昨日早朝市役所に押かけ
「ナゼ早く葬式をしてくれぬ、何骨が揃わぬと馬鹿にするな。役所では人の死ぬのを待っているのか」
と泣きつわめきつ罵り騒ぐに、伊東市助役は面会しこんこん腑に落ちるように諭して引き取らせりという。さるにても、今回の平和がいかに人々の心を刺激せしやを察すべし。ただただ哀れむべきは遺族なるかな。
(民友、明治三十八年九月三日)

日露戦争は日露講和条約(ポーツマス条約)が明治38年9月5日調印され終戦を迎える。
日本は多くの戦死者と多大な損害を出しながらも戦勝を勝ち取る。
しかし日本はロシアから十分な補償を得ることができず、これが同年9月5日から6日におきた暴動、日比谷焼き打ち事件へと発展する。
民衆の怒りは大きなものだった。

写真は明治時代撮影の七間町二丁目、静岡民友新聞社。