新門辰五郎

新 門 辰 五 郎

 私は先年、静岡の町史「七間町物語」の中で静岡に玉川座という芝居小屋を建てた新門辰五郎について記したが、辰五郎という人は知れば知るほど、興味が尽きない魅力的な人物である。

辰五郎が江戸で活躍していた頃は、江戸町火消し「を組」の頭として、また「十番組」の頭領として約二千人の手下を抱え、浅草・上野を縄張りとする大江戸一の侠客として、「粋で、強くて、気風(きっぷ)がよくて、男の中の男」と称され、「幕末の江戸庶民の憧れの的であった。」と描いた。

 しかし、64歳を迎えた辰五郎は、これまでとは全く異なる社会環境に歩み出すことになった。
元治(げんじ)元年3月、京都滞在中の一橋慶喜(よしのぶ)が孝明天皇の寵愛(ちょうあい)を受けて「禁裏(きんり)御守衛総督(御所の防衛責任者)」と「摂(せっ)海(かい)防禦指揮(大阪湾の防禦責任者)」に任命された時、一橋家の家臣不足を補うため、辰五郎に対して「一橋家お抱えの火消し隊」として上洛することを求められた。
これを聞いた辰五郎は、愛娘(まなむすめ)の「お芳(よし)」が慶喜公の御側(おそば)女中(じょちゅう)(愛妾)として前年から上京していたので、娘会いたさと相俟(あいま)って、二つ返事でお受けすると200人の手下を連れて京都に乗り込んだ。

 京都滞在中の新門一門は京都御所の防火と土木作業を表の仕事とし、尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)運動とテロ活動が渦巻く京の町で、慶喜公の私邸(若州(じゃくしゅう)屋敷(やしき))の警備や一橋家の雑用を新門組として請負い、慶喜公が第15代将軍に就任した際には、慶喜公とお芳のために自宅等を担保に借金をして、二条城内に本丸仮御殿を財政難の幕府に替わって(後日清算払いで)建ててやるなどで活躍した。
新門一門がどんなに危険な仕事に従事していたのかは、京都滞在の約3年間に頑強な火消し鳶(とび)が44人も死んでいることでも分かるし、慶應4年1月3日の鳥羽・伏見の戦では伏見街道の先鋒を努めた新撰組が長州軍の突然の砲撃に為すすべも無く、隊員110名中70名を失ったのに伴い、新撰組の補助要員(武器・荷駄の運搬)であった新門一門は、100人もの死傷者を出している。

 静岡では、謹慎(きんしん)する慶喜公の身辺警護の傍(かたわ)ら、慶喜公の再起を心の底で願いつゝ、駿府藩の行政への協力とポランティア活動に邁進(まいしん)した。在静中の約3年の間に次の事業に取り組んだ。
☆静岡町火消し4組の創設と出初式(でぞめしき)・江戸木遣(きや)りの伝承。☆玉川広(ひろ)太夫座(だゆうざ)の再建。☆磐田(いわた)で駿府藩が行った製塩事業への協力。☆駿河湾沖の洋式捕鯨の許可申請への協力。☆徳川家を慕って来静した旧幕臣達のお世話。他

 新門辰五郎が上洛したのは64歳の時であり、静岡へ来たのは68歳、帰京したのは71歳のときであった。「人生50年」と言われていた頃の64歳から、日本の歴史上でも最大級の激動期であった幕末・明治維新の時代に生きた辰五郎は、御三家に生まれて将軍の座に登りつめ、次の瞬間には賊軍と呼ばれて謹慎生活に陥(おちい)るという、歴史の一方の主役である徳川慶喜公に、最も近くで仕えていた民間人として、貴重な歴史の現認者となった。

それに、京都時代と静岡時代の辰五郎の業績を検証してみると、電話も車もパソコンも事務用品もろくに無いあの時代に、どうして何種類もの事業や業務を組み立て、管理をして行ったのか、不思議でならない。辰五郎の業績資料を見ると、まるで現代のIC機器を駆使して企画・運営・管理する、有能なNPO法人の代表者の伝記を読むようだ。
そうかと言って慶喜公を影で支える立場上、表面には出ぬよう自制していたようだ。そのためか、静岡では新門辰五郎の名を知る者が少なく、ましてや静岡での業績を知る人は非常に少ない。

辰五郎が江戸・京都・静岡で数々の大きな実績を挙げた後ろには、辰五郎の人柄を慕い、協力してくれた多くの人達がいる。ざっと挙げてみても辰五郎の人脈の巾の広さには驚く。
☆第15代将軍徳川慶喜公を筆頭に在京の重役達、幕臣の勝海舟・山岡鉄舟・松岡萬・中台信太郎、精鋭隊員、上野輪王寺門跡(もんぜき)の舜(しゅん)仁(じん)準后(じゅんこう)、上野寛永寺別当の覚(かく)王院(おういん)義(ぎ)観(かん)、新撰組副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)、侠客の相模屋政五郎・清水次郎長、江戸歌舞伎三座の座元と役者達、他多数

 辰五郎は慶喜公が将軍に就任した時、陪臣(ばいしん)への登用の御沙汰(知らせ)があったが辞退した。
駿府藩では士族待遇だったが元来は町人であり、辰五郎自身に関する史料は少ない。ただ、辰五郎の幅広い人脈から、これからも思わぬ人物の伝記などに辰五郎の名を見付ける楽しみがある。
これが辰五郎研究の醍醐味である。
静岡市 白倉和幸